ここでは、生活ケアについての話をしていきたいと思います。
生活とは
はじめに、「生活」とは何でしょうか?
少し考えてみてください。
広辞苑によると、生活とは
生存して活動すること、生きながらえること
世の中で暮らしてゆくこと
と、ありました。
このことで何が分かるかといいますと、生活は
「生存して活動すること、生きながらえること」
という、衣・食・住、最低限の暮らしを送るということと、もうひとつ
「世の中で暮らしてゆくこと」
ということ、世の中、つまりは社会の中で、集団の中で暮らしていくという意味合いもある、ということが分かります。
つまり
生活は、衣食住がそろっていることだけでは、その定義を満たすことはできないということです。
介護とは
私たち介護従事者は、利用者へ介護サービスを提供しています。
それは、食事介助であったり、入浴介助であったり、排泄介助、いわゆる三大介護であったり、それに付随した、トランスであったり、口腔ケア、バイタルチェックなどもありますし、着替えなどもあります。
では、それら全てが満たされれば、利用者の生活が十分満たされているということになるでしょうか?
「いいえ」という答えになると思います。
それは、今上げた支援の内容は、先ほどの広辞苑の中でいう、「生存して活動すること、いきながらえること」の支援しか、カバーされないからです。
生活を支援するためには、いわゆる三大介助だけやっていれば、利用者が満たされるというものではありません。
生きながらえるだけでは、社会で暮らすとは言えないからです。
社会で暮らしていく中で、ひとりひとり「こうしたい」「ああしたい」「こうありたい」という思いが当然あります。
当然利用者も「こうしたい」「ああしたい」という思いを持っています。
わたしたち介護従事者は、そうした「こうしたい」「ああしたい」という思いを受けて、それを実現するお手伝いをすることこそが、介護であるということを把握する必要があります。
繰り返しになりますが、三大介助だけやっていればその人が満たされるわけではないということです。
それを理解しないと、生活をケアするはずが、逆に利用者から生活を奪うことになってしまいます。
生活をケアする介護のはずが
例えば、「転んでしまうから」「危ないから」という理由で「座ってて」と注意することを考えてみてください。
座っていれば、ケガなく過ごせるという、ご利用者の方の安全は守られます。
生きながらえるという意味の生活は、送ることができます。
では、「動きたかった」「何かしたかったから動いたのに」という利用者の気持ちは満たされるのでしょうか?
「この利用者、認知症があって立ち上がりが多いんです」
と言って困り顔をする介護従事者がいます。
認知症のある方は意味もなく動いてはいけないのでしょうか?
トイレの時以外は座っていることが、果たして普通なのでしょうか?
そもそも、意味がないと人間は動いてはいけないのでしょうか?
利用者が、年下のスタッフからタメ口で話しかけられることがあります。
普通の生活の中で、目上の人、年上の人には敬語を使うという慣習が、社会にはあります。
さらに言えば、お客様には丁寧に接するという社会の常識があります。
生活を支援する私たちは、俗に言う施設の常識に染まることなく、社会の常識という感覚を忘れずに接する必要があるのだと思います。
このような行為は、その人から生活を奪う行為であるということを理解しないといけないと思います。
安全に何もなく、ただ物質的に満たされて過ごして頂くだけでは、生活づくりの支援にはなりません。
生活を奪われた利用者は、もはや生活者でなく囚人のようなものです。
日々の気付きを大切に
「生活を作ることこそ介護である」と考えた時に、生活にこだわりを持ってもう一度自分の周りを見てみると、これはこうしてはいけないな、とか、これはこういうことだったんだ、とか、気付きが生まれます。
むしろ、気付きを生まないと、この仕事はただ身体ケアをやるだけの繰り返しという仕事に成り下がってしまいます。
ただ仕事をこなしていこうという考え方では、気付きは生まれません。
日々の気付きを大切に、ご利用者から生活を奪うのではなく、一緒に生活を作っていく介護の仕事をしていきたいものです。

