介護現場で何気なく交わされる言葉の数々。そのひとつひとつに、わたしたちはどれほど自覚的になれているでしょうか。
「現場で通じればいい」「効率的だから」という理由で、言葉を削り、あるいは無意識に相手を型にはめてしまう表現が定着していないでしょうか。専門職として、そしてひとりの人間として、言葉の裏側に潜む「敬意の欠如」や「偏見」に向き合うことは、ケアの質そのものを問い直すことでもあります。
今回は、多くの現場で慣習的に使われている「二つの言葉」に焦点を当て、その違和感の正体を深掘りします。
takuma
生活相談員(社会福祉士・公認心理師・介護支援専門員)
デイサービスとショートステイで、利用者・家族・職員の“間”に立ちながら日々奮闘しています。
現場で感じた違和感や気づきを言葉にし、「学び続ける相談員」を目指して情報発信中。
・kindle出版で『対人援助一年目の教科書』『学び続ける生活相談員』発売中。
・職業情報サイトへ生活相談員に関する記事提供実績あります。その他介護情報サイトへ記事提供実績もあり。
・Xでの発信もしています。
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「認知症」を「認知」と略すことで失われる専門性
介護現場において、もっとも頻繁に耳にする略語のひとつが「認知」です。「あの人は認知があるから」といった表現が当たり前のように使われていますが、わたしはこの言葉を使うことに強い抵抗を感じています。
意味の変質が招く誤解
「認知」とは、本来、人間が知覚・記憶・判断する知的なプロセス全体を指す言葉です。一方で「認知症」は、その機能が持続的に低下した「状態」を指す疾患名です。 この二つを混同し、「認知症」を単に「認知」と略してしまうことは、医学的・専門的な正確性を欠くだけでなく、その方が抱える生きづらさの本質を記号化し、思考停止に陥ってしまう危険を孕んでいます。
「ケアマネ」とは決定的に違う理由
たとえば「ケアマネジャー」を「ケアマネ」と略すのは、役割を指す名詞の短縮であり、意味の変質は起きません。しかし、疾患名から「症」を落とすことは、その方のアイデンティティの一部を雑に扱うことと同義です。言葉を雑に扱うことは、その対象である「人」へのまなざしを曇らせる一歩になりかねません。
介護施設への「慰問」という言葉に潜む無意識の視点
ボランティア活動などで使われる「慰問(いもん)」という言葉。この言葉の響きに、皆さんはどのような印象を持たれるでしょうか。
介護施設は「不幸な場所」なのか
「慰問」という言葉には、歴史的に「不幸な境遇にある人や、病人を訪ねて慰める」というニュアンスが含まれています。かつて、刑務所の受刑者や戦地の兵士に対して使われてきた背景があります。 しかし、介護施設は決して「隔離された不幸な場所」ではありません。そこは、利用者がこれまでの人生を携え、日々の喜びや悲しみを共有しながら営む「生活の場」です。
そこに「慰めに行く」という表現を持ち込むことは、外部の人間が無意識のうちに「自分たちは満たされており、施設にいる人々は欠落している(可哀想な存在である)」という特権的な視点に立っていることに他なりません。
尊厳ある暮らしへの侮辱
「慰問に来ました」と言われて、快く感じる方がどれほどいるでしょうか。 その言葉は、そこで暮らす方々への敬意を欠き、ある種の侮辱に近いネガティブな影を落とします。「生活の場」を「慰めが必要な場所」と定義づけてしまうことは、利用者様の尊厳を根底から揺るがす行為であるとわたしは考えます。
言葉選びは、ケアの「哲学」そのものである
言葉は、わたしたちの思考を規定します。 どんなに素晴らしいケアを提供しようと志していても、日常的に使う言葉が雑であれば、その志はやがて形骸化してしまいます。
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「認知」ではなく「認知症」と呼ぶこと: 疾患を正しく理解し、個人の尊厳を尊重する。
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「慰問」ではなく「交流」や「訪問」と呼ぶこと: 対等な人間として、豊かな時間を共有する。
この価値観を誰かに強制するつもりはありません。しかし、現場で感じる「言葉の気持ち悪さ」を無視しないことは、より良いケアを追求する上で欠かせないプロセスです。
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おわりに
介護施設は、誰かにとっての「家」であり、最期まで自分らしく在るための場所です。 その場所を、言葉の暴力や無意識の偏見から守ることも、わたしたちの重要な責務ではないでしょうか。
みなさんが普段、現場で感じている「小さな違和感」。 それを見過ごさず、ひとつひとつの言葉を丁寧に選び直すことから、真の「生活支援」は始まるのだと信じています。


