こんにちは。勉強不足の社会福祉士takuma(@takuma3104 )です。
大学時代、ろくに勉強せず遊び呆けてしまった結果、いまさらになってわが身の知識不足を悔やんでいます。そういうわけで、ここでは「わたしがもう一度勉強し直したい福祉分野のワンテーマ」をピックアップし、一から勉強し直してみようと思います。さらには、これをご覧のあなたとも、学びをシェアしていけたらないいぁ、なんて思いで書いております。
というわけで、今日の学びはこれです。
なぜ「救護法」は制定されたのか?
前回は「恤救規則」について学びましたが、その続きが気になったわたしは「救護法」について勉強してみることにしました。
救護法について、わたしがまず疑問に思ったのは、「なんで恤救規則から救護法に変わったんだろう?」ってことです。1874年に制定された恤救規則ですが、その対象となる人はかなり限定されていました。政府が救貧政策に消極的だったためですね。
お金をかけたくなかったからだよね。
そんなケチケチ政府が、なぜ救護法を成立させたのか?!
この理由をわたくしtakuma知りたいわけです。はたしてどんな理由があったのか?みなさんと一緒に学んでいきたいと思います。
なぜ恤救規則から救護法になったの?
不景気によって貧困者が増えた
時は1929年(昭和4年)。恤救規則の制定から55年の月日が経ちました。その間、日本では第一次世界大戦(1914年~1918年)後の戦後恐慌(1920年~)や、1923年の関東大震災、1927年の昭和金融恐慌により、貧困問題が深刻になっていたのです。
もう無理です!「人民相互の情誼」なんかじゃやっていけません!
当然国民からは不満勃発です。もはや恤救規則では手に負えなくなってしまったのです。こんな社会情勢を受けて、とうとう政府も動かざるを得ない状況になってきました。そんな中「救護法」は制定されたのです。それにしても、あのケチな政府を動かすくらいの不景気って、よっぽどひどい状況だったんだろうなぁと推測されます。
不景気で貧困者が増え恤救規則では手に負えなくなったため、救護法が制定された。
恤救規則とどう違うの?
かくして救護法は制定されました。まず救護法の中身について確認しておきましょう。それまでの恤救規則とはなにが変わったのでしょう?
対象者が広がった
恤救規則ではいわゆる「無告の窮民」、具体的には「70歳以上でヨボヨボの人」「13歳以下の子ども」「障害者」が救済の対象でした。それが救護法では「65歳以上のヨボヨボの人」「13歳以下の子ども」「妊産婦」「障害者」と、拡大されています。
しかし、70歳以上が65歳以上に変わったことと、妊産婦が追加になったのみで、限定されていたことに変わりはありません。また、「失業者」はこの救護法の対象外でしたので、不況により仕事を失った人に対しての救済措置はありませんでした。
国の責任が明記された
政府はこれまで貧困を個人の問題ととらえていました。そのほうが、貧困対策としてのお金を抑えることができるから、政府としては好都合だったからですね。ですが、救護法により貧困が個人的な問題から社会的な問題として位置づけられました。そして、救貧は国家の義務であると認めたのです。これはけっこう大きな進歩ですね。
とはいえ、救済されると選挙権がなくなってしまったり、「だらしのない人」や「怠け者」、「市町村長の言うことを聞かない人」は救済を取り消すこともできるという、ちょっと厳しいルールもありました。
救済者が増えた
救護法施行前の年である1931年に救済された人の数が30,783人だったのに対し、施行された1932年は157,564人と一気に5倍も増えています。この数字から、救護法によって救われる人が増えたことが見てとれますね。
政府にもお金がなかった
1932年に救護法が施行されたと先ほど書きましたが、制定されたのは1929年でしたね。制定から施行までの間に2年かかっています。これはどういうことでしょうか?実は、救護法を作ったはいいのですが、実施するお金が政府にはなかったんです。国民だけでなく、政府もまたお金がなかったんですね。
そこで政府は考えました。
政府が目をつけたのは「競馬」です。当時、競馬業界も不況のあおりを受けていました。そこで、「ひとり一枚しか馬券を買えない」というルールを政府に緩和してもらうことで、売れ行きを取り戻そうとしたんです。その代わりとして政府は競馬収入の一部を国に納めさせることで、救護法の財源を得たのです。
win-winの関係だね
「競馬」のおかげで、救護法はなんとか実施にこぎつけたというわけですね。
たしかに今も、競馬や競艇の売り上げにより助成を受けた福祉車両が走っているのを見かけます。公営ギャンブルと福祉とのつながりは、このあたりから始まったわけですね。